戦争はなぜ起こるのか。人間の本能が原因なのか。ニュースで戦争や紛争の映像を見るたび、多くの人が「人間は本能的に争う生き物だから、戦争はなくならない」という諦めにも似た気持ちを抱きます。
本記事では、戦争は本能ではなく“心理と条件の組み合わせ”で起きることを軸に解説します
一方で、心のどこかでこうも思うはずです。本当にそうなのか、だとしたら平和を願うことに意味はないのか、と。
この記事は、その葛藤に正面から向き合います。戦争の原因を「人間の本能」という切り口から科学的に整理し、心理学や進化学、考古学が示す答えと、そこから見えてくる私たちにできる具体的な行動までをたどります。
なお、ここで扱う「戦争」とは、個人同士のけんかではなく、国家や集団が組織的に暴力を動員する現象を指します。この区別が、以降の議論の前提になります。
「人間は本能で戦争をする」という考えの起源
戦争を人間の本能に結びつける発想には、長い歴史があります。特に1960〜70年代、第二次世界大戦の記憶と冷戦下の核戦争の緊張のなかで、ヒトは本能的に戦争をするようにできているのか、という問いが真剣に議論されました。
この議論を後押ししたのが、動物行動学の発見です。霊長類研究者のジェーン・グドールが、人間にもっとも近い動物であるチンパンジーの集団同士が計画的に襲撃し殺し合う様子を報告したことは、大きな衝撃を与えました。私たちはこうした攻撃性を生物として受け継いでいるのではないか、という不安が広がったのです。
進化論が「戦争は自然の摂理だ」という主張に使われた時期もありました。しかしこの考え方は、その後の研究によって根本から問い直されることになります。
戦争はなぜ起こるのか:科学が示す本能ではないという答え
戦争が人間の本能かどうか。この問いには、専門家の間でもタカ派とハト派の論争がありました。両論を整理したうえで、現在の到達点を見ていきます。
本能説に一石を投じたセビリア声明
戦争を本能とみなす悲観論に、世界の科学者が正面から答えを出したことがあります。それが「暴力についてのセビリア声明」です。
セビリア声明は、1986年にスペインのセビリアで、心理学や神経生理学、動物行動学、遺伝学、人類学など各分野の科学者19名が起草し、1989年にユネスコ総会で採択されました。その核心は、戦争を生物学的に運命づけられたものとみなす悲観論を、科学の名において明確に否定した点にあります。
声明は5つの命題という形で、当時、戦争を正当化するために使われていた生物学的な主張を科学的に誤りだと退けました。要約すると次のとおりです。
- 動物の祖先から戦争をする傾向を受け継いだというのは科学的に正しくない
- 戦争などの暴力が遺伝子にプログラムされているというのは正しくない
- 人類の進化で攻撃的行動が特に強く選択されてきたというのは正しくない
- 人間に暴力的な脳が備わっているというのは正しくない
- 戦争が単一の本能で引き起こされるというのは正しくない
そして声明は、戦争が人の心のなかで生まれるのなら平和もまた人の心のなかで始まる、戦争を発明した同じ種は平和を発明することもできる、と結びます。
縄文の人骨が語る「戦争は宿命ではない」
セビリア声明は1980年代の見解で、権威だけに頼るのは危うい面もあります。そこで注目したいのが、日本の考古学からの実証的な裏づけです。
中尾央氏(当時・山口大学)、松本直子氏(岡山大学)らの共同研究は、約1万年におよぶ縄文時代の人骨2,582点を網羅的に調べ、暴力による死亡率を初めて数量的に算出しました。その結果はわずか1.8%。世界各地の狩猟採集文化で報告される暴力死亡率(十数%)の5分の1以下という、極めて低い水準でした。この成果は2016年、英国の科学誌『Biology Letters』に掲載されています。
つまり、人類史のなかには戦争が一般的ではなかった時代が確かに存在したのです。組織的な暴力は、定住や人口増加、資源の集中といった社会的条件が整って初めて生まれやすくなる。戦争は人間の宿命ではなく条件の産物だという見方を、実証的に支えています。
攻撃性はあるが戦争は自動的には起こらない
大切なのは、人間に攻撃性がないと言っているわけではない点です。自然人類学者の長谷川眞理子氏が指摘するように、生物である以上、利害が対立する相手と戦う場面は常にあり、誰しも攻撃性そのものは備えています。
しかし、その攻撃をどこまでエスカレートさせるかは、相手がどう出るかに依存するゲーム理論的な状況です。高い攻撃性があるから自動的に殺し合いが起こるという単純な図式は成り立ちません。利害対立の中身、動員できる攻撃力、集団の結束といった条件の集合の結果として、戦争が選択されるかどうかが決まるのです。
この結論には異論もあります。認知心理学者スティーブン・ピンカーや霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールらは、セビリア声明が生物学の役割を過小評価しすぎており、やや理念的だと批判してきました。彼らは暴力に生物学的な基盤があることを認めたうえで、その基盤を無視するより理解するほうが平和に近づけると論じます。ただし彼らも、生物学的な素質があることと戦争が避けられないことは別だと考えており、戦争は宿命ではないという結論そのものは広く共有されています。
本能でなくても争いが起きる心理と構造
本能が直接の原因でないとすれば、何が人を集団的な暴力へ向かわせるのでしょうか。進化心理学や社会心理学、脳科学が明らかにしてきた引き金を見ていきます。
下の図は、戦争が生まれるまでの心理の流れを整理したものです。
戦争が起こるまでの心理プロセス
「本能」ではなく、特定の条件と心理プロセスの積み重ねで起こる
内集団と外集団の線引き
「われわれ」と「かれら」を分ける
脅威・不均衡の知覚
相手を危険・脅威と感じる
非人間化・道徳的逸脱
相手を「人」として扱わなくなる
集団的暴力の正当化
暴力が「正しい」とされる
各段階は途中で断ち切ることができる ―― だからこそ戦争は「防げる」
内集団と外集団を分ける心
人間は先史時代から集団をつくり、内側では協力し合う一方、外に対しては対立を生んできました。社会心理学ではこの傾向を内集団バイアスと呼びます。自分の属する仲間を、外部の人より優遇してしまう心の働きです。
興味深いのは、この線引きがどれほど些細な理由でも生じることです。クレーの絵とカンディンスキーの絵のどちらが好きかといった意味のない基準で分けただけの集団(最小条件集団)でも、人は仲間をひいきします。国籍や民族、宗教といった実在の区分がなくても、「私たち」と「あの人たち」の境界は簡単に立ち上がるのです。
仲間思いと敵への攻撃は別物だった
多くの人が誤解しがちなのが、仲間を大切にする気持ちと、よそ者を攻撃する気持ちがセットで進化したという考え方です。身内をかばうから敵を憎む、というのは直感的にもっともらしく聞こえます。
ところが、高知工科大学の三船恒裕氏らによる経済実験は、この通説に一石を投じました。実験は、参加者が制限時間内にボタンを押すかどうかを選ぶ先制攻撃ゲームです。押せば相手に大きな損失を与えられるが、押されなければ双方が利益を得られるという、資源配分の構造になっています。
これを最小条件集団で行ったところ、相手が仲間でもよそ者でも攻撃率に差は出ませんでした。仲間内での協力が確かに生じる集団でも、外集団への攻撃性は自動的には現れなかったのです。これは、協力が生じる状況と攻撃が生じる状況が別物であることを示します。仲間を思う心が、そのまま敵を攻撃する心になるわけではない。人間観を少し明るくしてくれる発見です。
攻撃を引き出す条件がある
では外集団への攻撃はどんなときに顔を出すのか。三船氏の実験で手がかりになったのが攻撃力の非対称性です。3人が1人を相手にするような力の差が大きい状況では、攻撃率が跳ね上がりました。しかも相手の攻撃力のほうが大きいとき、人は内集団よりも外集団に対してより強く攻撃する傾向が見られました。
つまり相手のほうが強くて脅威だと感じる状況が、攻撃を引き出す条件のひとつになっている可能性があります。攻撃は生まれつきの衝動というより、脅威や不均衡といった状況によって点火されるものだと考えられます。ただしこれは実験室での知見であり、現実の国家間戦争は規模も要因もはるかに複雑です。心理メカニズムの一端を照らすものとして捉える必要があります。
敵を人間扱いしなくなる危険なスイッチ
戦争を語るうえで避けて通れないのが非人間化です。人間の脳は本来、他人を殺すことに強い抵抗を感じるようにできています。その抵抗を解除してしまうのが、相手を人間以下の存在とみなす心の働きです。
歴史を振り返れば、ナチス・ドイツがユダヤ人を害虫と呼び、ルワンダの大量虐殺で敵対民族がゴキブリと呼ばれたように、大規模な暴力の前には決まって敵を人間の枠から外す言葉が広がりました。こうした傾向は現代でも、SNS上で特定の集団をひとくくりにして攻撃する言葉として現れます。相手を人と思わなくすることで、暴力への心理的ブレーキを外そうとするのです。
脳科学の研究でも、集団同士が争うとき、個人同士の争いに比べて自己意識に関わる脳領域(内側前頭前野)の活動が低下し、道徳的なタガが外れやすくなる可能性が報告されています。ただしこうした研究の多くは特定の対象や状況を扱った実験であり、戦争一般にそのまま当てはめるには慎重さが必要です。それでも、非人間化が暴力の重要な引き金であることは、歴史的事実とも符合します。
戦争を後押しする構造の問題
心理だけでなく、それを増幅する社会構造も見逃せません。国内では事件が起きれば警察と裁判所が対応しますが、国家間の世界には、対立を最終的に強制的に止める世界政府のような存在がありません。国際政治学ではこの状態をアナーキー(無政府状態)と呼びます。
このとき厄介なのが安全保障のジレンマです。ある国が防衛のために軍備を増やすと、相手国はそれを脅威と受け取り、対抗して軍備を増やす。互いに身を守るための行動が、結果として緊張を高め合ってしまう。争いを強制的に止める仕組みの欠如が、こうした悪循環を戦争へと結実させる土壌になるのです。
戦争はなくせないのか、それともなくせるのか
現実に目を向ければ、戦争がなくなる気配は乏しく見えます。スウェーデンのウプサラ紛争データプログラム(UCDP)とオスロ国際平和研究所(PRIO)の集計によれば、2024年の世界の武力紛争は36か国で61件にのぼり、統計を開始した1946年以降で最多を記録しました。国家間の紛争も増加傾向にあります。この数字だけを見れば、悲観したくなるのも当然です。
一方で、長い歴史のスパンで見ると別の側面も見えてきます。心理学者スティーブン・ピンカーは著書『暴力の人類史』で、先史時代から現代にかけて人口あたりの暴力による死亡率はむしろ長期的に減少してきたと論じました。この主張には批判もありますが、私たちは人類史上でも比較的暴力の少ない時代を生きているという視点は、悲観一辺倒を相対化してくれます。
そして、ここまで見てきた科学の知見は決定的な意味を持ちます。戦争が本能や遺伝子による宿命であれば、私たちにできることは何もありません。けれど戦争が、内集団と外集団の線引き、脅威の知覚、非人間化、そして構造の産物であるなら、その条件やプロセスに働きかける余地が残されているということです。
実際、対立するグループが自分たちのことを実際にはどう見ているかを正確に知らせるだけで、相手への非人間化が和らぐことが実験で示されています。ウクライナ戦争の勃発時に、敵側の兵士の人間性を伝えるメディアに触れた人々で、相手への非人間化が抑えられたという報告もあります。悲観論は、それ自体が戦争を後押しする一因になりうる。だからこそ変えられると信じることには、実質的な意味があるのです。
戦争をなくすために個人ができること
一人の力で戦争は止められない。それはある意味で事実です。ですが、戦争を生む心理プロセスの多くは、私たち一人ひとりの心のなかにも縮図として存在しています。日常のレベルで実践できることは、決して無力ではありません。
- 「私たち」と「あの人たち」の線引きに気づく
自分が誰を仲間とし、誰をよそ者と感じているのか。その線引きに自覚的になるだけで、無自覚な偏見にブレーキがかけられます。ニュースを見たとき、特定の国や民族全体をひとくくりに悪と決めつけていないか、立ち止まって考える習慣が出発点になります。 - 相手を人間扱いしなくなる言葉に乗らない
特定の集団を害虫や病気にたとえる表現、人格を認めない呼び方は非人間化の入り口です。SNSでそうした言葉を見かけても、安易に拡散しない。それだけでも暴力への心理的ブレーキを守る行為になります。 - 一次ソースで確かめる習慣を持つ
争いを煽る情報は、単純化されたわかりやすさを持つことが多いものです。衝撃的な情報は最低一度は一次ソースで確認する、週に一本は自分と異なる立場の記事を読む、といった小さなルールが効果的です。 - 感情が強く動いたときほど一度時間を置く
恐怖や怒りが高ぶった瞬間は、単純で過激な説明に引き寄せられやすくなります。反応する前にひと呼吸置くだけで、集団心理の熱に流されにくくなります。 - 対立する相手の実像に触れる
相手側の物語や当事者の証言、難民支援や平和学習を通じて生身の人間の姿を知ることが、非人間化を和らげる効果を持つことは実験でも示されています。人道支援団体への寄付や、平和的な外交を掲げる候補者への投票も、個人にできる具体的な一歩です。
これらはどれも派手な行動ではありません。けれど、戦争を本能の宿命から変えられる条件へと捉え直したとき、その条件に働きかける小さな実践の意味が見えてきます。
よくある質問
戦争は本能なのか?人間には攻撃性があるからなくならないのでは?
攻撃性そのものは誰にでもあります。しかし攻撃性があることと、集団的な戦争が起こることは別問題です。戦争は攻撃性だけでなく、集団の線引き、脅威の知覚、非人間化、指導者の選択、国際社会の構造など、多くの条件が重なって初めて生じます。攻撃性がそのまま戦争になるわけではありません。
チンパンジーも群れで殺し合うと聞きました。やはり本能ではないのですか?
チンパンジーが隣の群れを計画的に襲撃し殺すことは事実で、人間の戦争との連続性を示す研究もあります。ただし人間の戦争の特異性は、国家やイデオロギーといった抽象的な概念のために、見ず知らずの他者を何百万人という規模で動員できる点にあります。高度な認知能力と文化的条件が揃って初めて戦争になるという点は、むしろ戦争は条件の産物という見方を補強します。
一人が意識を変えても、世界の戦争には関係ないのでは?
直接止められるわけではありません。しかし戦争を支えるのは、非人間化を許す空気や、脅威をあおる情報、悲観論の広がりでもあります。そうした心理的土壌は、多くの個人の意識の積み重ねでできています。無関心でいることが、最も戦争を容認する結果につながります。
セビリア声明は今も有効な科学的見解ですか?
セビリア声明は1980年代の見解で、ピンカーやドゥ・ヴァールらから生物学の役割を軽視した理念的な声明だという批判も受けてきました。その後の進化心理学や脳科学は、暴力に生物学的な基盤があることも示しています。ただし生物学的な素質があることと戦争が避けられないことは別であり、戦争は宿命ではなく変えられるという結論自体は、縄文の実証研究なども含め広く支持されています。
参考文献
- 暴力についてのセビリア声明(Seville Statement on Violence, 1986起草/1989年ユネスコ採択)原文 — 公益財団法人 人権教育啓発推進センター「人権ライブラリー」 https://www.jinken-library.jp/database/view.php?p=law&c=human-treaty&id=58414
- 中尾央ほか「Violence in the prehistoric period of Japan」(Biology Letters, 2016)関連プレスリリース — 岡山大学 https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id383.html
- 三船恒裕(高知工科大学)「『争い』をもたらす人間の心理メカニズムを解明したい」 https://www.kochi-tech.ac.jp/power/research/post-52.html
- 長谷川眞理子「時代の風〜第52回 ウクライナ侵攻 戦争はヒトの本能か?」総合研究大学院大学 https://www.soken.ac.jp/outline/history/mariko_hasegawa/kaze/522022410.html
- Conflict Trends: A Global Overview, 1946–2024(UCDP/PRIO) https://www.prio.org/publications/14453
