「人生の意味」を考えるとき役立つ7人の哲学者の言葉

人生の意味について考え始めると、なかなか答えが出ずに苦しくなることがあります。けれど哲学者たちの言葉が役に立つのは、明快な結論を授けてくれるからではありません。むしろ、これまで見えていなかった角度から人生を眺め直させてくれるからです。

役立つのは、答えそのものよりも、問いを深めてくれる言葉です。見方を増やしてくれる言葉こそが、重く感じる問いを少しずつほぐしてくれます。この記事では、古代から現代まで7人の哲学者の言葉を手がかりに、人生の意味の考え方を整理していきます。

目次

なぜ人生に「意味」を持つことが大切なのか

そもそも、人生に意味を感じられるかどうかは、生き方の質に深く関わっています。これは抽象的な話にとどまらず、近年の研究は、目的や意味の感覚が心身の健康とも結びつくことを示唆しています。

ロンドン大学(UCL)のアンドリュー・ステプトー教授らが平均年齢65歳の英国人約9,000人を追跡した研究では、人生に強い充実感や目的を感じている人は、そうでない人に比べて調査期間中に亡くなるリスクがおよそ30%低いという結果が報告されました。この研究は医学誌『ランセット』に発表されています。意味の感覚は、気分の問題であると同時に、生きる力そのものにも関わっているのかもしれません。

ここから先は、哲学者たちの言葉を3つの方向に分けて見ていきます。自分を知ること、意味を自分で作ること、そして意味がなくても行動すること。この3つの軸が、考えるための足場になります。

自分を知ることから始める

人生の意味を外に探しに行く前に、まず自分自身に目を向けるという道があります。

ソクラテス ― 汝自身を知れ

「汝自身を知れ」は、もともとデルポイのアポロン神殿に刻まれていたとされる格言で、古代ギリシアの哲学者ソクラテスがこれを自らの哲学の出発点に据えたことで知られます。自分が本当は何を大切にし、何を知らないのかを自覚すること。意味を考える作業は、ここから始まります。何が自分にとって価値あるものかが見えていなければ、どんな意味も借り物になってしまうからです。

アリストテレス ― 善く生きることが人間の目的である

ソクラテスの弟子筋にあたるアリストテレスは、『ニコマコス倫理学』のなかで人生の目的を「エウダイモニア」、すなわちよく生きること、人間としての開花に求めました。彼が説くのは、一時的な快楽ではなく、日々の習慣や行動を通じて徳を育て、自分の能力を十分に発揮して生きることそのものが善であり目的だ、という考え方です。意味は遠くにあるのではなく、よく生きる営みの積み重ねのなかに宿るというわけです。

自分を知り、よく生きようとする。この方向だけでも力強いのですが、人間は同時に弱さや苦しみも抱えています。次は、その弱さをどう受けとめるかという視点です。

弱さや苦しみとどう向き合うか

人生の意味を考えるとき、避けて通れないのが苦しみの存在です。哲学者たちはこの問題から逃げませんでした。

パスカル ― 人間は考える葦である

17世紀フランスのパスカルは『パンセ』で、人間を自然のなかで最も弱い一本の葦にすぎないと表現しました。しかし彼はこう続けます。それは考える葦である、と。風に吹かれれば折れてしまうほど弱い存在でありながら、自分が死ぬことや宇宙の大きさを理解できる。その思考する力にこそ人間の尊厳がある、という視点です。弱さを否定せず、むしろ弱さを抱えたまま考え続けられることに価値を見いだしています。

ショーペンハウアー ― 人生は苦しみと退屈のあいだを揺れ動く

一方、19世紀ドイツのショーペンハウアーは、主著『意志と表象としての世界』に由来する有名な見方として、人生を振り子にたとえました。欲望が満たされなければ苦しみが、満たされれば退屈が訪れ、人はこの二つのあいだを行き来する、というのです。

悲観的に聞こえますが、この見方には効用があります。意味や幸福を外の出来事に求めすぎると、得ては失い、振り回されてしまう。だからこそ過度な期待を手放し、苦しみを当たり前のものとして受け入れる構えが、かえって心を落ち着かせるのです。

ここまでの「弱さや苦しみ」への二つの向き合い方を整理すると、次のようになります。

哲学者弱さ・苦しみのとらえ方そこから導かれる姿勢
パスカル人間は弱い。だが考える力を持つ弱さを認めつつ、思考する力に価値を見いだす(肯定)
ショーペンハウアー人生は苦しみと退屈の往復である過度な期待を手放し、平静を保つ(諦観)

弱さや苦しみを受けとめたうえで、では意味そのものはどこから来るのか。ここから現代哲学の核心、意味は自分で作るという考え方に入ります。

人生の意味は自分で作る、そして行動する

20世紀の哲学者たちは、あらかじめ用意された意味というものに懐疑的でした。意味は与えられるのではなく、自分で生み出すものだと考えたのです。

ニーチェ ― 生きる理由を持つ者は、ほとんどどんな生き方にも耐えられる

『偶像の黄昏』に収められたニーチェのこの言葉は、苦しみそのものをなくそうとするのではなく、苦しみに意味を見いだせるかどうかを問題にします。生きる「なぜ」を持っている人は、過酷な「どのように」にも耐えられる。意味は外から与えられるのではなく、自分で創り出すものだという力強い洞察です。

この言葉を補強するのが、ある精神科医の体験です。ヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所を生き延びた経験を『夜と霧』に記しました。極限状況のなかで生き残った人々には、果たすべき何か、待っている誰か、つまり生きる意味があったと彼は観察します。フランクル自身もニーチェのこの言葉を引きながら、意味こそが人を支えると論じました。『夜と霧』は世界的なロングセラーとなり、英語版だけで900万部を超えて読まれてきたといわれます。

サルトル ― 人間は、自分が何になるかを自分で決める

フランスの実存主義者サルトルは「実存は本質に先立つ」と説きました。人間には生まれつき定まった目的はなく、まず存在し、自らの選択によって自分が何者かを作っていく、という考え方です。あらかじめ用意された意味がないということは、裏を返せば、自分で意味を選び取る自由と責任があるということです。生きる意味は、選択の積み重ねによってあとから形になります。

カミュ ― 不条理を引き受け、それでも木を植える

意味を作るという考えは、最後に行動へと行き着きます。よく知られた言葉に「たとえ明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える」があります。しばしばカミュの言葉として紹介されますが、宗教改革者マルティン・ルター由来とする説のほうが有名です。

ただ、この言葉が伝える姿勢は、カミュの哲学とよく響き合います。カミュは、人間が意味を求めるのに世界が答えを返さない状況を「不条理」と呼びました。それでも絶望に逃げず、不条理を引き受けて生き続けること自体に価値を見いだします。世界に確実な意味が保証されていなくても、自分の行為に価値を与えて生きられる。明日がどうなるかわからなくても、今日できることを一つ植える。この姿勢こそが、意味を作るという思想の実践的な結論だといえます。

どう使えばいいのか

ここまでの7つの言葉は、一つの正解を示すものではありません。むしろ、人生の意味に向き合うための3つの方向を与えてくれます。自分を知ること、意味を自分で作ること、そして意味がはっきりしなくても行動することです。

これらは互いに矛盾する部分もあります。意味は自分で創るものだと説くニーチェやサルトルと、苦しみを諦観とともに受け入れるショーペンハウアーでは、立場がかなり違います。けれども、だからこそ自分がどの言葉に心を動かされるかが、あなた自身の人生観を映し出すヒントになります。

「人生の意味」という問いが重く感じられるときは、いきなり全体の答えを出そうとせず、今日は何を大事にして生きるかという小さな問いに置き換えてみるとよいでしょう。哲学は、完成された答えをくれる道具ではなく、生き方を選び直すための道具なのです。

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